ナジェージダ・プトゥーシキナ作『ピサの斜塔』(1997)

 

翻訳:大森雅子

※ロシア語テクストは、Птушкина Н.М. «Овечка» и другие пьесы. М.:А и Б, 1999に基づき、2001年に翻訳した。そのため、以下に訳出したテクストは、2001年以降に劇作家が加筆・修正した新しい版の翻訳ではない。

 

『幸せな家族には、それぞれの幸せがあるが、

不幸な家族はどれも似通っている。』

レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』より、作者の記憶に基づいて引用。

正確かどうかは保証しない。

 

登場人物

 

 

1

 

一部屋のアパートに夫と妻、息子が暮らしている。息子は一時的に不在。一般的な部屋とキッチン。キッチンには小さなテレビが置いてある。部屋の真ん中には蓋の開いたスーツケース。夫と妻はキッチンにいる。夫は食べ、妻は食卓に料理を出す。妻が料理を出すと、夫がそれを食べる。

 

夫 ほら見ろよ、こんなに腹ペコだったんだ! 食欲が止まらない! 休日前だからだな! 明日は天気が良いそうだから、別荘に連れて行ってやるよ! 新鮮な空気を吸いに行くんだ。ついでに畑の方も少しずつ準備していかないとな。ジャガイモでも植えつけよう! 秋には、自家製の安全な野菜が食べられるぞ。おまえも楽しみだろう? ポテト、もっとくれ! ハンバーグもお代わり!

 

妻は夫の前に皿を置くと、膝をついて彼の傍に座り、じっと見つめ、彼の顔を片手で悲しそうになでる。夫はスプーンを口まで持っていけずに、不自然な姿勢で固まっている。

 

夫 (しばらくして)俺は食べてるんだ。

妻 (とてもいらだった様子で)わかっているわ。ちょっと中断してくれるかしら。あなたに大事な話があるの。

夫 (これまでの経験で、妻の大事な話というのは、きまって不愉快なことなので)食事の後にしてくれないか。いや、サッカーの試合の後だな。いや…明日は早起きしないといけないから…また今度でもいいか? また今度な! マスタードあるか? 何でもいいから何かソースは?

 

妻は立ち上がり、非難の気持ちを込めて、夫の目の前にわざと音を立ててソースを置く。

 

夫 ハンバーグだけどさ、なんでパンの代わりにカッテージチーズで作るようになったんだよ。これじゃ腹一杯にならないじゃないか!

妻 (藪から棒に)もうおしまいにしましょう!

 

間。

 

夫 (警戒して)何だって? どうしたんだよ?(肩をすぼめ、当惑して)どれもこれも、何だか塩気が足りないんだな! 最近、お前の料理、塩が足りなかったり、しょっぱ過ぎたりするな。何か調子が変だぞ。何かあったのか、職場で?

妻 普段通りだと思うけど。

夫 ということは、単に機嫌が悪いだけか?

妻 確かにそれもあるわね! 私、出て行くことにしたの。

夫 それがいいよ! (手をこすって)気分を変えて来いよ。俺は今からテレビでサッカーの試合があるからな。見逃すわけにはいかないんだ。

妻 もうおしまいね! 出て行くわ。

夫 出かけてもいいぞ、腹一杯になったし。自分で片付けておくよ。長居するなよ。

妻 (笑いながら)私、出て行くのよ。

夫 (無関心に)しばらく帰ってこないのか? 危うくニュースを聞き逃すところだった!(テレビのスイッチをつけると、テレビにしか興味が行かなくなる)ビール、まだあるだろう?

妻 ビール? (笑って)わからないわ。何かあるんじゃない!

夫 (いいかげんに返事する)よし! どんどん攻めてるな! ほら、やばいことになった! そうだ、お母さんによろしくな。(いつものくせで無意識に)お母さんに……そう。20年もの間、1度くらいはお母さんの方から俺によろしく伝えてくれてもよかったのにな! 全く!

妻 他に言いたいことがあったら言ってちょうだい!

夫 もういいだろう、俺達、ありがたいことに別々に暮らすことになるんだろう?!

妻 ママによろしく伝えておくわ。他には何かある?

夫 何かって、他に何があるんだ。全部違うって否定するくせに!

妻 それは事によるわ。でも、そんなことはもういいの。

夫 いつでも何もかも、否定するくせに。もっとも、俺はもうだいぶ前から全部どうでもよくなってしまったけどね。

妻 嘘よ! 何もかも全部否定してなんかいないわ!

夫 喧嘩はやめよう。でも、いつもそうじゃないか!

妻 具体的にはどういうことよ?

夫 具体的にだって? お前のお母さんは、お前が俺と結婚することに反対だったじゃないか。 

妻 それは20年前のことよ?!

夫 忘れているふりをしているのか?

妻 よく覚えているわ。

夫 覚えているのか! でもそれは違うって、否定するんだろう?

妻 しないわ。

夫 本当か?

妻 そうよ。でもそれがどうかして? これでお気に召しましたでしょ?

夫 静かに!(テレビに夢中になる)よし、よくやった! 予想通りだ。(妻に向かって)何の話だっけ?

 

間。

 

夫 (急に活気づいて)お前、本気でそう言っているのか?

妻 そうよ。それがどうかして? 20年も前のことでしょう!

夫 ということは、やっぱり俺は正しかったんだな?! お前、俺達の入籍の日にちを延期しただろう! おばさんが亡くなったとか、お前が具合悪いとか、妊娠したとかで! 俺は何となく変だなと勘付いていたんだぞ。

妻 それで?

夫 面白くなってきたぞ! つまりだ、お前はこれまでの20年間を否定したことになるな!

妻 今日そうすることにしたの。それでお気に召したでしょう?

夫 ああ、とっても。まあ、もうどうでもいいことだけどな。

妻 それじゃ、出て行くわ。

夫 お母さんによろしく! しばらく帰って来ないんだろう?

妻 (一音ずつ)で・て・い・く・の・よ。

夫 (同様に)りょ・う・か・い。それで、いつ帰ってくるつもりだ?

妻 か・え・ら・な・い・わ!(部屋に向かい、スーツケースを持ち上げ、別れを惜しむようにしばらく部屋を眺める。)

夫 何だって腹を立ててるんだ? だいたい俺が正しいことを言ってるときは、お前はいつも腹を立てているよな! 帰るときは電話してくれ! バス停まで迎えに行ってやるから。お前、そんなスーツケースで出かけるのか? 何が入ってるんだ? 汚れた下着か?(しぶしぶ立ち上がる)バス停まで持ってってやるよ(ため息をつく)。でも、出かけるなら、今すぐにしてくれよ。ファイナルマッチは見逃せないからな。

妻 一人で行けるわ。

夫 (さらっと)それなら、それでいい! お母さんによろしくな!(即座に再び座る)さあ、俺たちのチームがどれだけ攻められるか。

妻 さようなら!

夫 泊まってくるんだろう? 明日の朝、車で寄ってやるよ。ちょうど別荘に行く途中にだし。

妻 あそこの机に手紙を置いたから。捨てないでちょうだいね! あの子に宛てた手紙よ。

夫 誰が書いたんだ?

妻 私よ。

夫 (ぼんやりと)心配するな。渡しておくよ。

妻 (腹立たしげに)あなたとはお別れよ! 離婚届は後で渡すわ!

 

間。

 

夫 (苛立って)タイミングが良過ぎないか! ちょうど試合が始まるところなのに!

妻 ごめんなさい、わざとじゃないの、偶然よ。

夫 試合の後で徹底的に喧嘩しないか?(意味ありげに)それで仲直りしようじゃないか。(無意識に)仲直りだ……とりあえず、今は何かやることがあるだろう。ニュースでも見てろよ!

妻 そのニュースならもう見たわ! 昨日も、一昨日もじっくりとね。でも今日は違うニュースを公の場でお伝えするわ。私とあなたは離婚することになりましたってね。

夫 その言葉、すでに何度も聞いたことがあるぞ。

妻 でも、これが最後よ。

 

間。

 

夫 (重苦しいため息をついて)昨日はせいぜい300グラムしか飲んでないだろう。それに、ちゃんとつまみも食った。酔っ払いにはならなかった。そんなふうに俺のことを見るなよ! やめてくれ!!! その視線が我慢ならないんだ。お願いだから! どうしても行きたいっていうなら行けよ! ただ、言っておくが、いい結果には終わらないぞ……結局、ジャガイモを植えつける時期を逃してしまうじゃないか。それだけが悔やまれるな。

妻 私は何も言わないでここから出て行くつもりだったのだけど、20年もあなたと一緒だったのだから、と思い直したの! だから、「さようなら」はちゃんと言わないとね!

 

夫は妻のスーツケースをつかみ取り、部屋に持っていき、中身をよく見る。

 

夫 たった300グラムのウォッカで! 仮に半リットル飲んだとしてもだぞ! お前の少ない脳味噌で考えてもみろよ、世間の男たちがどれだけ飲んでいるか?! 毎日だぞ! このことをお前は真面目に考えたことがあるのか? おい、何とか言ってみろよ。大体俺は遠慮してるほうだ。週に1日しか飲んでないんだから! そうだろ! わけあって飲むこともあるが、それでも週に2日だ! つまり、週に1.5日ということだ。これがお前には許せない、気に入らないっていうのか? お前に飲め、なんて強要していないだろう! いやなら飲まなきゃいい! 俺はお前に無理強いしてないじゃないか! お前だって大人だろう! なんでお前が気に入らないからといって、俺が飲んじゃいけないんだ?! それが女の理屈なんだな! 俺はお前の言うことを聞く子供だっていうのか? 何を押し付けようとしているのか、ちゃんとわかっているのか? 全く飲むなだと?! いい加減にしろ! そんな失礼極まりない挑戦的な言葉なんか、恥ずかしくて聞きたくもない。終わりにしよう! こんな喧嘩終わりにしようぜ! 試合が始まってしまう!

妻 これ以上あなたを怒らせるつもりはないのよ。あなたっていう人を作り変えようとしたけど、もうやめるわ。ただ、出て行くことにしたの。これが本当に最後よ。

夫 同じことばかり、もうたくさんだ! 他に話題はないのか? そりゃ、飲みすぎた……たしかに、俺も悪かったところもあるが……これで全ておしまい! 試合が始まるんだ! 見てみろよ、いい奴らだろう! 奴らが全く飲まないとでも思ってるのか? とんでもない! 飲んでるに決まってるさ! だけど奴らの女は、文句一つ言わないんだぞ。

妻 もういいわ。今となってはあなたのことに首をつっこまないから。

夫 もう謝っただろう! それなのにいつもお前は物事をややこしくして! 俺が悪かったって言ったんだから、いつまでもくよくよするなよ!

妻 わかったわ。あなたが謝ったことにしましょう。許してあげるわ。

夫 それじゃ、お母さんのところに行けよ! ほら! またな! ゴール!!! フィンランドめ! すごいぞ! 開始2分でゴールか! ゴーーーール!!!(彼女をぎゅっと抱きしめて、音が出るほどキスを浴びせかける)

妻 友達としてお別れしましょう、いいわね? 私たちには息子がいるのだし。

夫 ゴーール! ゴーール!

妻 私たちは20年間夫と妻だったけど、友人同士にはなれなかったでしょう。だからお別れのときくらいは友人になりましょう! お邪魔はしないわ。 さようなら!

夫 何をがたがた言ってるんだ?(テレビに見入る)帰ってくるときはどんな顔で現れるか今から楽しみだ。静かに! 行け、行け、行け!!! 畜生!!!

妻 ちゃんと私の話を聞いてよ。

夫 どけよ! 待ってろって!

妻 私たち、永遠にお別れなのよ。

夫 (テレビに向かって)よしよし! ほら、バカ野郎、行け、行け、行くんだ!!!

妻 もう戻らないのよ! おしまいなの、さようなら!

夫 (テレビに向かって)よしよし! 全く救いようのないバカ野郎だなあ!!!

妻 二度と戻ってこないのよ! あなたこそ、バカ野郎ね!

夫 (テレビに向かって)全く、最低のバカ野郎だ!!

妻 どんな顔でも戻ってくることはないわ! もう暮らせるわけない、こんな人と……

夫 (叫ぶ)畜生! よしよしよし! ゴーール!! やった!!! よくやったぞ!!!

妻 (怒りながら叫ぶ)じゃあね!!!(スーツケースを掴んでドアの方に走る)

夫 (テレビの方を常に見ながら、彼女を追いかける)待てよ! 話し合おう! もうすぐ試合も終わるから、そうしたら話し合おう。もうすぐハーフタイムだし! 正気になれよ! 何かやって待ってろよ!

妻 ビールでも買って来いとでも?

夫 面倒じゃなければよろしく。(テレビの方に駆け寄って)ほらほら…もうおしまいだ!!!

妻 じゃあ行くわ。

夫 よくやった!(彼女の方を眺めて)何だって?

妻 何よ?

夫 どこにまた行こうって?

妻 ビールよ。

夫 スーツケースを持って?

妻 それが何か?

夫 スーツケースを持って、ビールを買って来るのか?

妻 だから、私は戻ってくるつもりはないの! ビールも何もあったもんじゃない。

夫 ってことはやっぱり?

妻 当たり前よ!

夫 意思は固いのか?

妻 そのようね。

夫 ということは、原因があるんだな?

妻 あるわよ。

夫 たしかに飲んださ……でも静かに帰ってきた。何も騒ぎを起こしてない。お前のことも殴らなかったぞ。

妻 ただ朝方帰ってきて、ベッドの上に座って、釣りのリールを持って魚を釣ろうとしていただけよね。それでこう叫んでた。「なんて俺はバカなんだ! 6月はこの辺ではほとんど釣れないんだった!」って。

夫 笑わせようとしたんだよ。

妻 それはうまくいったわね。だいたい、今は6月じゃなくて5月だし。

夫 そんなことで出て行こうっていうのか? 絶対に信じられない!

妻 それだけじゃない。

夫 じゃあ何なんだ?

 

妻、沈黙したまま夫を見る。

 

夫 ほら、早く言えよ! ハーフタイムが終わってしまう!

 

妻、沈黙している。

 

夫 もしかして、誰かがお前に電話してきたのか?

妻 仮にそうだとしたら、どうなのかしら。

夫 俺のことを中傷した奴がいるのか?

妻 ありえないことじゃないわね。

夫 それを真に受けたのか? そうだろ?!

妻 それで?

夫 電話で聞いたことを全部鵜呑みにしたのか?

妻 そうかもしれないわね。

夫 何が本当で何が嘘か、聞いてくれればよかったんだよ。俺だって知っておいた方がいいんだし! もちろん、お前が中傷よりも真実を知りたいって思っているのならね。本当のことを知りたいだろう?

妻 いいえ。

夫 せっかくだから本当のことを教えてあげよう。こんなことは、もううんざりなんだが。

妻 私はもうどっちだって構わないわ。

夫 何もなかった。これが本当のところだ。

妻 それはおめでたいことね!

夫 なんで何もなかったかって、知りたくないのか?

妻 私が? いいえ。

夫 それはもったいないぞ。まず、なぜそれが起こったかという前段階を知ってから、嫉妬するもんだ。順番が逆じゃだめだぞ。それが普通の女性の普通の立場ってもんだ。

妻 さようなら!

夫 またかい! さようなら、さようならって! よりによって、このファイナルマッチのときに! そうさ、確かに昨日は飲んだよ。ブートヴォのアパートで修繕工事をしてるときにさ。サーニャの誕生日だったんだ。飲まないわけにはいかないだろう! 何だい、俺はそんなときに彼を見捨てろだと? しらふのまま、お前のところに帰ってこいだと? ばかばかしいにもほどがある! それに彼は皆を招待してくれたんだぞ! 招かれたのは、男連中だけだった。誓ってもいい。これでも信じてくれないのか?

妻 そんな話、もうどうでもいいのよ。

夫 男連中だけだったんだよ。リュートカちゃんもいたけど。でも彼女はいて当然さ! だって、同じ仕事仲間なんだから。言っておくけど、彼女はタイルを敷き詰めるのがうまいんだよ。本当に! それで、皆で飲んでたときに……奴らが俺を泊まらせようと仕掛けたんだ。俺だけが彼女と関係を持ってないっていうもんだからさ。奴らは、俺のことをあれこれ詮索したあげくに、いろいろ侮辱的なことを言ってきたんだ。お前が聞いたら、それはそれは気持ちのいいことをね。俺は酔っ払っていたから、思わず興奮して、彼女を部屋の隅に追い詰めた。いや、そんな真面目じゃなくて、30秒くらいで……つまりな、何もなかったんだ! 誓って言うけど、うまくいかなかった。うまくいったとしたら、お前にこんなこと話すと思うか?

妻 そうやって、あなたは自分を正当化して、私を慰めようとするのね。

夫 それは当たり前のことだろう! 俺は結婚してるんだ。俺には何も関係ない。だいたい酔っ払ったまま何ができるっていうんだ? 笑わせるなよ! お前、誰かから何か言われたんだろう?! それで想像を膨らませたんだな! 「実は、関係があった」って言われたんだろう! そうだろう! でも何もなかったんだ!!! 信じてくれよ?

妻 信じるわ。お話はもういいから。試合を見逃すわよ。さようなら!

夫 なんだよ、リュートカを連れてきて、証明しろっていうのか? 本当に何もかもうまくいかなかったんだよ! 何か始めることさえできなかった! そうしようと思ったことはあったさ、そうさ。でも、うまく進まなかったんだ。男がよこしまなことを想像することくらいいいだろう? もし、そういう想像だけで罰せられるっていうんだったら、ロシアの男は皆刑務所行きだ! 何だよ、その表情は? お前は一度も浮気しようと考えたことがないのか?

妻 考えたことあるわよ。

夫 何だって?

妻 本当よ。

夫 何回?

妻 数えたことないけど、たくさん。

夫 本当か?

妻 残念ながらね。

夫 わかった。

妻 何がわかったの?

夫 (神経質そうに台所の中を歩き始め、テレビのことは忘れている)この売女め! 何度も浮気してたってわけか!

妻 でも、それは想像上の話よ。

夫 なおさらひどい!

妻 試合が終わってしまうわ! あなたが観ない間に!

夫 俺を懲らしめようっていうのか? ビールは残ってたっけ?!

妻 私、ビール飲まないから。

夫 そうだ、お前は飲まないんだった! お前の方が悪人だ! コニャックが……どこかにあったはず……。あの時サーニカと一緒に2本目を飲み残したはず……そうだ! お前があのビンを俺たちから取り上げたんだったな!(ビンを見つけて、自分のグラスに注ぎ、テレビの画面に触れ合わせる)もう30でフィンランドが勝ってる! こんな風に人生ってやつは通り過ぎていくもんなんだな! 人生で良いことは見逃してばかり! (飲み干す)俺は全く疑わずに信じていたのに。でも裏切られていたってことか!

妻 ただ想像しただけよ、裏切ってなんかいないわ!

夫 想像しただけか! そんな夢見る乙女たちは一度ひどい目にあわなきゃいけないな! よこしまなことを想像した女は即刻ね! 想像すべきことは他にあったんじゃないか? お前は結婚してるんだぞ! それに母親でもある! 孫のことを想像する時期だろうが! 俺なんか、孫のことしか頭にないぞ! それなのに、おまえったら男のことばかり! しかも俺という生きた普通の夫がいるのに! 俺がバカだったんだな! 20年間もお前と一緒に暮らして、一度もお前を裏切ったことはなかった! 全く、お笑い種だよ!

妻 がっかりしないでね。これから失った時間を取り返せばいいじゃない!

夫 取り返すだと! 俺はお前と暮らした20年間で、男としての資格も失ってしまったんだ!

妻 あなたのこと、かわいそうで、泣きそうよ。

夫 俺は、大事なことを見落としていた。ちゃんと見てなかった。だって信頼していたからな。それでお前は、どんな男のことを想像していたんだ?

妻 いろんな人。

夫 具体的には?

妻 いろんな人と具体的にいろいろね。

夫 細かいところまで?

妻 あれこれいろんなことを考えたりしたこともあったわ。

夫 それで、最初から最後まで一通り想像したりしたのか?

妻 そうね。

夫 お前はそれで、俺に見られて恥ずかしくないのか?! 妻として、女として、母親として恥ずかしいと思わないのか?

妻 いいえ。

夫 俺がバカだったのか!(瓶から直接飲む)間抜けだったんだ!(テレビを観る)フィンランドも1点許したな! せっかくの試合も無駄になってしまった! 俺だって、女に見とれることもあったさ。もちろん、女の足とか胸とか一通りね。女をじっくりまじまじと見たとしても、その時にいや、いかん、と思うんだ! 俺には妻がいるって! だから一度だって、心の中で想像したこともない。理想的なほど良心に一点の曇りもないんだ。お前はいつも俺の唯一の女だ、一番大事な女だって。一番だぞ。信じようが信じまいがご自由だが、これがありのままの真実なんだ。

妻 ありがとう。でも、もう手遅れよ。お別れね。

夫 信じてくれないのか? 誰かのことは信じるのかもしれないが、俺は駄目なのか?

妻 信じるとか信じないとか、今さらどっちでもいいの。さようなら!

夫 たぶん、誰かからあれこれ言われたんだろう。これじゃ、お前は俺の人間としての尊厳を侮辱していることになるぞ。

妻 全て許したのよ。私はね、あなたとの関係を素晴らしい状態のまま、出て行くの。本当に心の底から素晴らしいと思える関係のまま、私はあなたとお別れすることにしたの。

夫 俺はわかってるんだ、お前が何のことを言ってるのか! わかってるぞ! あれは全部つまらないことだったんだ! もう何年も昔のことだろう! それに、もしお前が事情を知っているとわかっていれば、俺だって謝ったさ。でもお前は何も言わなかった。お前が何も言わないのなら、俺だってあえて言わないさ。でも、ずっと前から知ってたんだろう?

妻 何の話よ?

夫 何のことかよくわかっているくせに。

妻 全く想像もつかないわ。それに想像したくもない。何も訊くつもりはないわ。

夫 訊いてくれよ!

妻 なぜ? もう手遅れよ。もっと前にそうすべきだったのよ。

夫 正直に話すよ。本当のことをね。何もなかったんだ! 全部嘘だ! あそこでは何もなかったんだ!

妻 あそこってどこよ?

夫 例の出張先の話さ。

妻 じゃあ、あそこでのこと?

夫 いつ、どこで起こったことを聞いてるんだ?

妻 わかっているくせに。

夫 サラトフのことか?

妻 仮にそうだとしたらどうなの。

夫 でも、あれは社会主義時代の話だ!

妻 それで、社会主義時代のサラトフで何があったのよ?

夫 (ラッパ飲みする)あれは責められてもしかたない。お前にはその権利がある。責めたいなら責めろよ。耐えてやるから。あれはたった一度の出来事だったんだ。

妻 もう永遠にお別れしましょうというときに、責めても仕方ないわ。(突然彼を抱きしめて、頬にキスをする)責めたところで、もう手遅れなのよ。さようなら!(出て行こうとする)

夫 (スーツケースを掴んで)俺は、赤ん坊が俺の子だなんて信じてないんだ!

妻 (驚いて)何ですって? 私たちの子じゃない、ですって……(スーツケースを置いて、ビンタを一撃食らわす)

夫 信じないでくれ! どうかあの赤ん坊が俺の子だなんて信じないでほしい! 絶対に駄目だ!

妻 どうかしちゃったのね。わかったわ、信じないことにするわ。

夫 俺だってどうにも信じられないんだ。 あれは工場側が俺の世話をするようにって手配してくれた女だったが、これまでもそういう仕事をしていたんだろう。彼女は夜になると俺をホテルに案内してくれた。でも、彼女は部屋に居座って、暗闇の中を帰るのを怖がったんだ。それで一晩明かすことになった。仕方ないから、一緒に飲んださ。時間をつぶすのに、何かしないといけない。本を一緒に朗読するわけにもいかないだろう! ただ俺は、あのときのことを何も覚えていないんだ。彼女はなぜか朝から陽気だった! きゃっきゃ騒いでいたっけ……。俺の方は頭が痛くて仕方なかった。覚えていたことはこれだけ。しばらくして彼女が、ここのアパートに電話をかけてきた。「こんにちは、久しぶりね、実は私、赤ちゃんができたの」って。サラトフで妊娠した女なんて山ほどいるだろう! それなのに、あいつは俺に電話までしてきやがった。俺は、サラトフの歴史で唯一存在した男だっていうのか? あいつは1年後にまた電話をしてきて、「あなたの出張の後に生まれた子がどんな子が見に来てよ」って言うんだ! どんな子が生まれたかって? 象でも生まれたのかって言いたいね。それじゃ、俺が出張で行く町のすべてを回って、誰がどこで生まれたかっていうのをチェックしないといけないのか? あれは俺の子じゃない! 仮に赤ん坊がちゃんと生まれていたとしてもだ! そうか、あの雌犬がお前に電話してきたんだな?

妻 電話してないわよ。

夫 それじゃ、お前はどうしてこの話を知ったんだ?

妻 あなたからよ。たった今知ったわ。

夫 こうなったら、飲まずにはいられない。(ラッパ飲みする)それじゃ、なんでビンタなんてしたんだ?

妻 私たちの子供のことを言ってるのかと思ったの。

夫 それじゃ何だい? 息子は、俺の子だろう?

妻 疑っているの?

夫 お前の話を聞いた後じゃあね……今となっては何でも疑いたくなる。

妻 あなた以外の男性は人生で誰もいなかったわ。

夫 信じられないな。

妻 何を信じられないの?

夫 俺のほかに誰にも男がいなかったし、今後も現れないだろうってことさ。

妻 そんな人いなかったって、言ったでしょう。それは本当のことだもの。でも今後も現れないとは言ってないわ。きっと現れるわ。そう信じているの。

夫 まだこの俺が生きているのに?! (涙声になって)なぜだ? 俺は何をしたっていうんだ? 乱暴な言葉だって一度も言ったことがないのに……

妻 言ったわよ。

夫 いつのことだ?

 

間。

 

夫 覚えてないな。

妻 それじゃ思い出させてあげてもいいわ。でも、なぜ覚えてないの?

夫 もちろん、何か言ったかもしれない。俺だって人間だからな! でも、それはお前が何かきっかけを作ったからだろう!

妻 きっかけなんてないわ。

夫 だとしたら、その時は機嫌が悪かったんだろう。どっちにしても覚えてない。

妻 じゃあ思い出させてあげましょうか?

夫 昔のことは、もういい。誰にでもある話じゃないか。家庭生活で女にとって大事なのは、耐えることさ。俺はすぐにカッとなるけど、後引かない性質だしね。叫んだ途端に、すぐ忘れちまう。子供みたいなもんさ。でも、今までにおまえに手を挙げたことはなかっただろう!

妻 手を挙げたこと、あったわよ。

夫 手を振り上げただけだろう! そうさ! そういうことはあった。でもぶたなかったぞ。一度も殴らなかった。

妻 殴ったわ。

夫 嘘だ!

妻 思い出させてあげましょうか?

夫 何だってお前は、「思い出させてあげましょう」ばかり言うんだ?! 殴ったことはなかった!

妻 嘘よ!

夫 大げさに言ってるだけだろう!

妻 (ついに涙ながらに言う)あなたって人は良心がないのね!

夫 ずっと言ってろよ! ぐだぐだ! 思い出させたいならそうすればいい! 聴いてやるからさ! 試合が終わってしまった! 点数もわからないまま! ありがとうよ! 何もかもわからず仕舞いだ! コニャックがもうなくなるのに、他の酒はもうないし! 好きなだけ言えよ、けなすがいいさ、めいっぱい! こうなったら同じだから!

妻 あれはリョーリカが1歳になったときのことよ。

夫 息子のことを巻き添えにするな。あいつは関係ない!

妻 関係あるの! あなたは私を殴ろうとして、あの子にぶつかってしまったのよ。

夫 嘘だ! 俺はあいつを殴ったことはないぞ!

妻 最後まで言わせてよ! 私はあなたの話を邪魔したことないでしょう!

夫 邪魔してくれたっていいのにな!

妻 リョーリカが1歳になったとき……

夫 18年も前の話だぞ?!

妻 それがどうかして?! 18年前の生活が今の私たちに関係ないとでもいうの? じゃあ何よ、私たちの生活、1時間前に始まったって言いたいの?

夫 ほらほら、俺のことけなすだけけなせよ、そうするのが好きなんだろう。

妻 リョーリカの1歳の誕生日の時、あなた、お仲間をたくさん呼んだでしょう!

夫 それで?! たった1人の息子が1歳になったんだぞ! おまえにとってはお祭りごとじゃないかもしれないが、俺にとっては違う! 俺にとってあいつは聖なる存在なんだ。女ってやつは、大体男のこととか息子のことを全くわかってない!

妻 あの時もあなた、かなり飲んでたわ! 皆にもたくさん飲ませて!

夫 18年前のことだろう! 全く執念深いな!

妻 私もあの時はバカみたいに2本もお酒を買ってしまって。あなたはさらに3本買い足したでしょ。それにお客も持ってきてくれたのよ! あの子へのプレゼントは全部あわせたって3ルーブルにしかならないのに、ウォッカには100ルーブルもつぎ込んで!

夫 そんな風に人のことを悪く言うのはよくないぞ。

妻 皆、飲むわ、飲むわで、まだ足りない! 真夜中になってもよ! 赤ん坊は寝付くこともできなかったわ! 私、1時間、いや2時間も……ずっと抱っこしてたの。いつ皆がいなくなるかって待ちながらね。やっとお開きになるかと思ったら、あなたったら私に、お隣さんから金を借りてこいって言ったじゃない! 駅に行って、はしご酒して楽しもうって。それで、手を振りながら、「駅のレストラン、予約するように、急使に頼め!」って言ったわ。私はへとへとになりながら、リョーリカを腕の中でゆすってあげていた。だって、あの子を寝かせるところがないんですもの。あなたったら、酔っ払って酒の瓶をベビーベッドに投げ入れる始末。朝、すぐにまとめて返せるようにね。私はリョーリカを抱きかかえながら、小声であなたに言ったの、一刻も早く、あのバカ者どもがいなくなるように、あなたも一緒に出て行ってって。そしたら、あなた、いきなり手を振り上げたの!……でも、酔っ払ってたから、的がはずれたのね。思いっきり、寝ているリョーリカを叩きつけて……(涙ながらに)あの子はこのことがあってから、2年くらいいろんなことに怖がってばかりいたのよ!

夫 でも、今の話からすると、お前だって悪いぞ……俺を挑発したんだからな! だって、楽しく飲んでいるときに、お前が喧嘩をふっかけてきたんじゃないか! さっぱり覚えてないんだが。

妻 覚えてないの? 本当に覚えてないのね! 一番恐ろしいのは、本当に覚えてないってことよ。待って、ちょっと私のことを話させて。私が8歳くらいのときの話よ。ある将軍さんがね、緊急で英語の先生を探していて、私のママが採用されて、別荘に招待されたことがあった。あれは夏だった。私も一緒に連れて行ってもいいということになったの。そこには将軍のお孫さんがいて、私と同い年だったわ。フリルやリボンがたくさんついた服を着た、ちぢれ髪の女の子だった。その子は子犬を飼っていたわ。子犬もリボンをつけて、ちぢれた毛並みだった。私はというと、おばあちゃんの田舎からまっすぐやってきたものだから、丸刈りに近かった。だって、田舎って、シラミが山ほどいて、ママがそれに手を焼いている暇はないから。将軍のお孫さんはちぢれ髪なのに、私は色あせた水玉模様のスカーフをかぶってた。それに顔の皮がむけていたの、おばあちゃんのところで日焼けしすぎたから。お孫さんは私に近づくのを嫌がっていたわ。だから彼女が遊んでいる間は、私は遠くから眺めていたの。彼女ったら、美容院ごっこを始めて、自分の犬の毛を刈ってた。そしたら、昼食の後、叫び声がしたの、「誰が子犬をこんなひどい姿にしたの?!」って。そしたら、あの子ったら、お利口さんにちょこんと座って、目をしばたかせて、巻き髪を揺らしていたわ。皆が彼女のことを同情してた。だから、私が疑われたの。そしたら、私のママは、真っ赤な顔で私の耳をひっぱったのよ。子犬の毛を刈ったのは私じゃないって、皆知っていたのに。それに、私があの別荘の人たちのこと、よくわかっているってことも、皆知ってたはず! だから、あそこにいた人たちのこともママもことも、私、すごく軽蔑してるの。だって、私たち、飢えて死ぬほどじゃなかったんだから、あんなところ行かなくてよかったのよ! なんでよりによって、将軍さんの目の前であんな目にあわなきゃならなかったの?! その後、1人で庭に向かったの。どんなに気分が悪かったことか! そしたら例の子犬、私に走り寄ってきて、尻尾を振ってた。だから、思いっきり足で蹴飛ばしてやったわ! あのときのこと、絶対に忘れない! 絶対に!!!(泣き崩れる)

夫 そんなこと、どうでもいいじゃないか! (彼女を抱きしめて)その子犬はもうくたばってるよ! それなのに、おまえったら、泣き喚いて!

妻 くたばってるわ! だから絶対に許すことができないの! 忘れることもできないのよ! それなのに、あなたったら、あの子を殴ったことを覚えていないなんて! これからあなたと、どうやって暮らせる?

夫 殴ったのは18年も昔のことだろう! お前はそのせいで俺と別れることにしたのか?

妻 あの時赤ん坊を連れて、私はどこに行けばよかったのよ? ママのところにでも行けって? 共同住宅[1] に行けって? それに、この一件だけだと思ってるの?! あまりにも多くのことがありすぎたのよ!

夫 それなら、どうして今日出て行くことにしたんだよ?

妻 数の問題が質の問題になったっていうこと。

夫 ばかばかしい! サーニカなんて、女の数は増える一方だけど、質はひどくなるばっかりだよ。奴なんか自分で言ったことさえ覚えてない。豚野郎だからな! あいつはいつも誰かと付き合ってるんだ! お前のこと、信じるよ。悪かった。許してくれ。仲直りしようよ。

妻 もう手遅れよ。あまりにもいろんなことがありすぎたわ。もうこれ以上は無理。

夫 他に何があったっていうんだよ?

妻 もしも覚えていることが何かあるのだったら、私にもまだ希望があったのだけど!

夫 何だよ、全部記憶しろって、俺はコンピュータじゃないだろう?! 言えよ! 聴いてやるから。

妻 私から気に入っていた仕事を奪ったのは誰よ?

夫 誰だよ?!

妻 あなたよ。

夫 どんな仕事だ?

妻 気に入ってる仕事よ。私の専門。

夫 図書館の仕事か? たしかにお前は幸せだと思わなきゃならないな、だって、俺があの養老院からお前を引っ張り出してやったんだから! オールドミスとか退屈な年金生活のおじいちゃん、おばあちゃんとか、うるさく付きまとう小学生とかから救ってやったんだから!

妻 でも、私はちっとも幸せじゃないわ! 私にはあそこで働く権利があるのよ! 私は文化大学を出てるの。司書科をね。しかも成績優秀で卒業しているのよ。

夫 お前が賢いことはよくわかってるし、いつもほめてやってるだろう。

妻 それじゃ、どうして私があの大学に入ったと思って?

夫 それは、賢くておとなしい女学生にはもってこいの大学だからだろう?

妻 私はずっと司書になりたいと思っていたからよ!

夫 まっとうな夢を抱けたんだな! 俺はテストパイロットになりたかった。

妻 でも、現場監督になったのよね! 私は司書になりたいと思っていて、それをちゃんと実現したわ。私は本が好きなの! 私はオールドミスとか、退屈なおじいちゃん、おばあちゃんとか、うるさい小学生たちと一緒がいいの。あなたが何も考えずに私から奪ったものを、私は心から愛していたのよ。うちの息子だって、図書館で育ったようなもの。小学校から真っ直ぐ図書館に帰って来て、それでオールドミスたちとよくお茶を飲んでいたわ。退屈なおじいちゃん、おばあちゃんはあの子の宿題を手伝ってくれた。それにあの子の初恋は図書館であったのよ。うるさく付きまとう女の子に惚れたの。あなたは養老院から私を引っ張り出してくれたっていうけど、その後、私をどこに押し込んでくれたのよ? いちいち、名前を言いたくもないわ! あなたのお友達の新ロシア人たちとなんか、話しててもつまらない。

夫 その代わり、コンピュータでいろいろできるようになったじゃないか!

妻 何ができるようになったかって?! 支払書を作成するとか? セメントをノリリスクやチェチェンへ配送することとか? 毎週金曜日には感覚が鈍ってしまって、土日は何か本でも読みたいのに、それができないの。言葉は追えるのに、意味がつかめないの。

夫 それは単に図書館で働いていたときに、本当の労働がどういうものか、忘れてしまったからだな。

妻 本当の労働って、自分がやっていることを心底憎むこと? 自分がやっていることで感覚が鈍ること? 自分のことが恥ずかしくなることを言うの?

夫 なんだって、仕事のせいで恥ずかしくならなきゃならないんだ?

妻 あれを仕事って呼べるほど、私、まだ賢くなってないから! 私は今でもあんなことに関わったことを恥ずかしいと思っているの。国立の工場はセメントを作る。私たちの資本主義社会の会社は、それに寄生虫のように頼る。そして、皆が必要としているそのセメントが法外な値段で買われて、高額で売られる。なぜなら工場の方の社長さんはおじさんで、会社の社長は、その甥っ子だから。おじさんと甥っ子は10億の利益を生み出すのに、工場の労働者たちは半年も給料が未払いだったりするのよ!

夫 お前だって、その会社の金を結構もらっていることを忘れるなよ。

妻 でも、私の良心を完全に黙らせるほどの額じゃない。だいたい、私たち、そんなに貧しくなかったじゃない! 何のために、あなたは私の夢や尊厳を、そして私の安らぎを踏みにじったのよ!

夫 別荘の家だって、建て始めたばかりじゃないか! 俺は普通のことを考えただけだ。金が多ければ、良い暮らしができるって。お前の心を読み取れとでも言いたいのか? 俺に超能力者になれと? 何だって、黙ってたんだ? それに、あれはお前のために建ててるんだぞ! 孫が生まれたら、一緒に遊べるように、ゆっくりできるようにって。孫たちにいろんな本を読み聞かせられるようにって! 俺に別荘が必要だと思うか? 必要なわけないだろう?

妻 だったら、聞いてくれたらよかったのに。私が別荘でゆっくりしたいかどうか。たった一度でもいいから、私に何をしたいか聞いてくれたらよかったのに。

夫 何をしたいんだ? ほら、聞いてみた。

妻 旅行よ!

夫 たいした要望だ!

妻 プーシキンやレールモントフのゆかりの地を訪れてみたいの……

夫 たしか、この2人は外国旅行を許可されなかったはず……だったら、言ってくれればよかったのに! とっくの昔に行けたはずさ! それほど金もかからなかっただろうし! 会社で働くのが嫌なら、あんなもんとっとと辞めちまえよ! 図書館に戻れば、問題はなかったはずだ!

妻 ねえ、私の好きなキャンディやチョコレートの名前、知ってる?

夫 何の話だ?

妻 私の大好物のキャンディの名前よ。

夫 何を言いたいんだ? そんなこと知るか。大体、俺はそんなもの食べない。

妻 じゃあ、私の好きな香水は?

夫 訳が分からない!

妻 私に似合う色はどんな色よ?

夫 何でも似合うよ! ただ、丈が短くなければ! おい、俺はお前にどんなウォッカが好きかなんて聞かないだろう? 好きなものを買う! それで、お前を怒らせたことなんてない!

妻 それじゃ、私たち、どうやって知り合ったか、覚えてる? いつ、どこで、知り合ったのでしたっけ? あなたは私に何を言った? 私が言ったこと、覚えてる?

夫 俺はそういうこと、大体覚えてないんだ。俺たちが知り合ったとき、結婚するなんて思ってもいなかった。だから何も覚えてない。

妻 それじゃ、結婚したのはいつ? 何月何日? 何年のこと?

夫 書類があったんだが……よし、答えてやろう。リョーリカは今19歳、いや18歳だったか? おまえは妊娠してだいぶ経ってから俺と結婚したんだったよな? いや、それともそんなに経ってなかった? 19を引いたとすると……いや、待てよ、20引くべきか? おまえは確か白いドレスを……ということは、あれは夏だったか……

妻 あれは、秋の初めに小春日和のように暖かくなる時期のことよ。つまり、10月。

夫 覚えているさ、あの日は暖かかった。お前はきれいなレースを頭につけていたっけ。結婚式でのお前はすごくかわいかったよ。ずっと泣いていたけどな。

妻 おそらく、幸せだったからよ。

夫 女にとっては、こういうのがすべて大事なんだろう……でも、我々、男にとっては……

妻 恋人にとっては大事なことよ。でも他の人たちだって、ちゃんと覚えておくべきだわ。礼儀としてね。

夫 わかったよ。覚えておくことにするよ。

妻 覚えておくのではなくて、思い出すことよ。今となってはすべて過ぎ去ったことだけど。だって、私はもうあなたとお別れするのだし!

夫 ばかばかしい! どこへ行くっていうんだ? 行き先なんてないんだろう! お前と話しているうちに、いろいろ記憶にとどめることができたよ。最初から始めよう。

妻 最初ってどこからよ? いいこと? 私は違うの。私はこれから新しい生活を始めることができるの、それもあなた抜きでね。

夫 それなら、俺はどうしたらいいんだ? 俺はこれまでの古い生活に慣れてしまったんだ。少しずつ引き込まれるようにして慣れちまったんだよ。俺はこの生活が気に入っているのに。

妻 でも私は我慢できないのよ!

夫 それなら、全部なかったことにすればいいんだよ! うまくいかないときもあったさ。忌々しいこともね。それは今初めてわかったことなんだけどさ。でも、楽しかった思い出の方が圧倒的に多いだろう!

妻 それじゃ、想像してみてよ。例えば、あなたがランチに招待されたとしましょう。食卓に美しく並べられた料理があって、どれも本当に素晴らしいの。音楽の演奏があって、周りの人たちは皆笑顔。でも、その直後突然、糞が差し出されたとしたら? しかも、それを食べなきゃいけないの。このまま、出て行くべきかしら。でも、食卓を囲む雰囲気は申し分ないの。でも、その糞をちょびちょび、時間を空けながら食べなきゃいけない。こうなったら、あなたならどうする? この食事会に参加し続ける? それともその場を立つ? そのまま居続けるか、出て行くか、どっちにする?

夫 言いたいことはわかったよ。

妻 だから、これで終わりにしましょう。こんな風に、楽観的な雰囲気のままね。

夫 アルコール液はどこにあった?

妻 なんでそんなもの?

夫 ちょっとだけ飲むのさ!(アルコールを見つけて、注ぐ)

妻 薄めなさいよ。

夫 飲み方まで教えようっていうのか!(一気に飲んで、罵っている)

妻 これ、食べなさい!(きゅうりを差し出す)

夫 だから、教えるなって言っただろう。

妻 ほら、ちょっとだけでも!

夫 (押しのけて)構うな! この偽善者め! 20年間も俺と一緒に寝ていたのに! 家事洗濯しながら、どうやって浮気してやろうかって考えてばかりいたんだな! それで、将来的にはお別れしてやろうって! それなら何で俺と一緒に暮らしたんだ?! 俺のことを愛していないなら? 俺のことをよく思っていないんだろう? 尊敬してないんだろう? 

妻 どこを尊敬しろっていうのよ?! 週に1.5回飲んだくれるあなたを尊敬しろとでもいうの?

夫 俺にだってもっと良いところがあるだろう!

妻 あなたのどこを尊敬すればいいのよ? もしかして、あなたが道徳的にすばらしい人だって言いたいの? それとも、とても高貴な人だと? マナーの良い人だと?

夫 俺は普通だ! 皆と同じなんだ! ごくごく普通の男だ!

妻 私たち、価値観が違うのね。

夫 そりゃそうさ! だって俺は浮気をしようなんて考えたことないし!

妻 あなた、浮気したことがあるはずよ!

夫 一度だってないさ! 本気で浮気することなんか! まあ、たいしたことない、つまらないことは細々あるけどね。

妻 それじゃ、あなたの言う浮気ってどういうことよ?

夫 愛情があるときに起こることだね。でも、おれが愛しているのはお前だけだ。

妻 それじゃ、あなたは自分の愛情というものを完全に支配できている? 愛すると決めたら愛せる? 思い直して、嫌いになったりできる?

夫 なんだよ、おまえバカじゃないのか? そういうもんじゃないだろう! 愛情というものは、自分ではどうにもならないものなんだよ。

妻 それじゃ、あなたの長所って何? 自分の誇れるところは? 私の悪いところはどこ? あなたが私だけを愛しているからっていって、あなたがまともな人だとは言えない。 あなたの人生がそうなっただけのことよ。

夫 意味がわからない。何を言いたい?

妻 つまり、愛っていうのは、賜物のように与えられるものよ。私たちのやるべきことは、それを大事に守ることだけなの。でも、あなたは誘惑があると、愛を守るためにそれを断ち切ろうとはしなかった。

夫 そんなこと、簡単さ! 今までだって、たくさん断ち切ってきた。あえてそうしようと頑張ってきたわけではないけど。

妻 それはそうでしょうね。私だって気づいていたわ。あなたが無理やり働かせた会社にカウンセラーが招かれたことがあったけど、その人が私に質問してきたもので、「私に常にセックスパートナーがいるか」っていうのがあった。私は「いない」って答えた。いい? あなたのことなんか、思い浮かばなかったのよ? 頭の中になかったの。だいたいセックスパートナーって何なのよ? あなたは私の夫でしょう。

夫 だいたい、お前の方からせまってきたことなんて100年もないからな。お前の愛撫なんて見たこともない。

妻 なんで私の方からじゃなきゃいけないのよ? お酒とテレビ、それに釣りと仕事とか、バカバカしいことの合間に割り込んでなんとかなるっていうもんでもないでしょう。あなたのセックスなんて、たったの5分じゃない。それにこの5分だって、せいぜい年に2回が限度だもの!

夫 愛っていうのは、セックスだけじゃない。

妻 それじゃ、あなたのどこを愛せばいいの? あなたは私との生活で、何回花束をプレゼントしてくれた? 誕生日にくれるプレゼントは、いつもうちのアパートにあるお店でしか買ってくれないじゃない。帰り道に買うだけ! すぐそばだし、一度で用事も済むし。食料品店があったときは、お菓子の箱をプレゼントしてくれたときもあったわね。でも、その後、あの店、おもちゃ屋になったわ。熊やきつねのぬいぐるみがあちこちにあって、埃を被ってた。おもちゃ屋が閉店した後は、雑貨店でストッキングが売られ出したわよ。あなたとお別れするの、時期を誤ったかもしれないわね! だって、もうじき、あの雑貨店の後に、車の部品がオープンするみたいだし。私の誕生日にハンドルとかタイヤをプレゼントしてくれたら、20年くらいで車が1台出来上がりそうね。

夫 言いたいことはこれで全てか?

妻 全てですって?! 自尊心のお高いこと!

夫 そろそろ黙ってもいいんじゃないか。お前のモラルの高さには、うんざりだ! お前をこんな風に仕向けた人物のことくらい、わかってるけどな。

妻 一体誰よ?

夫 わかってるくせに!

妻 全く想像つかない!

夫 へえ!

妻 そんなふうに私のママのこと言わないで! ママは関係ないんだから!

夫 全く、執念深いお母さんに出会ってしまったもんだ! 20年後にまさか本望を遂げるとはな!

妻 恥ずかしいと思いなさい! あなたがガンで病院していたときのこと、忘れたの?! 毎日……いや、1日おきにお見舞いに来てくれたのは、誰よ? ブイヨンスープや手作りジュースを持ってきてくれたのは誰? 痛みを忘れるようにって、あなたとチェスをしてあげたのは誰よ?

夫 それは俺がくたばる様子をわざと見に来てたからさ。娘が未亡人になって、別のアパートで新しい生活を始めるのが待ちきれなくなったんだろう!

妻 ひどいわ!

夫 俺はお前の身勝手な考えはもう信じないことにしたんだ! 悟ったんだよ! お前に悪かったなんて謝ってしまって、俺はなんてバカだったんだろう! 俺を愛した理由はないっていうのか? 俺なんか、女たちからモテすぎるくらいだったのに! それじゃあ、お前のどこを愛せっていうんだ?! 鏡をよく見てみろよ! お前のその頭はなんだ? 俺だって、自分の考えていることをこれから言わないことにしてやろう。おまえはずっと化粧もしないでいるんだろう! ずっとそのばかみたいな眼鏡をかけてさ! ずっとずっと文句を言って、ぷんぷん怒り続けて、退屈そうにしてればいいさ。涙声でいればいい! 受難者気取りしやがって! だいたい、おまえが最後に笑った時のことなど、覚えてないけどな!

妻 笑う理由がないからよ。

夫 理由があって大笑いするのは、どんなバカだってできる。お前だったら、理由なしに笑ってみろよ! 笑ってみれば、何か面白いことが見えてくるはずさ。

 

妻が突然、大声で笑い出す。

 

夫 どうした? 気でも狂ったか?

 

妻、笑い続ける。

 

夫 大丈夫か? 気分でも悪いのか? やめろ!(妻の肩を揺すぶって)今すぐにやめるんだ!

 

妻は、これまで以上に大声で笑い続ける。

 

夫 おい、どうした? 話せるか? うなづいてみろ! 救急車を呼ぶか? 神経がおかしくなったんだ! 水飲むか? うなづいてみろ!

 

妻は笑い続け、頭を振っている。

ヒステリー状態に似ている。

夫は急いでコップを妻に差し出す。

妻は飲み干すと、つらそうに呼吸をしている。

目を見開いて、両手を大きく振っている。

 

夫 どうした? もうどうしようもない! 救急車を呼ぶぞ!

妻 (かすれた声で)あなた、何を飲ませたの?

夫 (コップのにおいをかいで、大声で笑い出す)アルコールだった! 何かつまめ!(きゅうりを差し出す)ほら、早く!

 

妻はコップの残りを夫の顔に吹きかける。

 

妻 あなたの言うことは正しいわ。長く笑ってれば、笑う理由なんて見つかるものね。まあ、なんてことなの! このバカ男のもとを出て行くのが、こんなに幸せだなんて!

夫 お母さんのところに行くんだな?

妻 そうよ。

夫 その後は、南の方に行くのか?

妻 そうする予定。

夫 旦那をすぐに探すのか?

妻 その通り。

夫 選り好みはよしたほうがいいぞ。誰でもいいから妥協しろよ。

妻 そんなもの?

夫 お前のことを必要だって思う奴がいるだろうか。

妻 その話なら、さっきしたところじゃないかしら。

夫 俺って、なんて心の広い男だろう! お前にすっかり慣れてしまった。何というか、古いスリッパみたいなもんさ。何の変哲もない。人前で履くのは恥ずかしい。でも、履いてしまう。慣れているものだからな。捨てるのも惜しい。

妻 その古いスリッパって、私のこと?

夫 比喩で言ったまでのことさ。

妻 地球上には、独身男性が山ほどいるのよ! 私にだって、1人ぐらい関心を持ってくれる人くらい、いてくれるはずよ。

夫 お前のどこに男が惹かれるか、見物だな。

妻 私はね、見栄えのする女だし、魅力もあるし、冗談好きで明るいし、親切なの……それに、知的で教養もあって、上品だし、スポーツも万能だし……私は魅力たっぷりなのよ!

夫 心理カウンセラーとの面談、もう一回しといた方がいいんじゃないか。

妻 どれもすべて私の潜在能力なのよ。こういったことが現実になるためには、男性が必要なの。私を崇めてくれるような人がね! 私を心底惚れてくれる人が! その人は、育ちもよくて、愛想が良い人のはず。それに思いやりがあって、やさしくて、気前の良い人……。

夫 どうして、よその男がおまえに惚れるなんてことがあるんだ? なぜ?

妻 私はそういう人を探すの。

夫 (アルコールをもっと飲んで)言いたいことはこれですべてか?

妻 とんでもないわ!

夫 もう十分だ。今度は黙ってろ! 眼鏡をはずして、楽な姿勢で立て! 今からおまえを殴ってやる! おまえの根性を叩き直してやる! 今日のことを思い出すことになるだろう! この売女めが!!! おまえのそのみだらな姿は、今日が最後だ!

妻 やめたほうがいいわよ!(レインコートを掴み取って、着る。)

夫 おまえさんの馬鹿な忠告は、たくさんだよ! 出て行くんだろう? もうレインコート、着たのか?

妻 出て行くわ。今度こそ、ほんとよ!

夫 違う! 今度は俺がお前を追い出す番だ! 後で正気に返ってから、ひざまずいて這って帰ってきても知らないぞ! 今日、お前はお母さんと話し合うことになってるんだろう!(妻を踏みつけて)だいたいお前は何なんだ? 俺に指図までして?(顔を軽く叩くが、痛くはない。ただ侮辱的な叩き方をする)ほら、謝れよ! ここで言いたい放題言ったことに対して! 今すぐに! 誰に向かって言う言葉だ?(スーツケースの中身を振り落として、アパートの部屋中に足で散らかす)出て行くことにしただと! 俺に対してどう話したらいいか、教えてやろう!

妻 なんてひどい人なの!

夫 もういい!!! おまえのせいで、俺の中の獣がついに目覚めたんだ! もううんざりだ!  よくも俺を挑発してくれたな! えい!

 

勢いよく手を振り上げるが、打撃はその勢いよりもかなり小さい。というのも、妻がレインコートのポケットから催涙ガスを取り出して、夫の顔に振りかけたからである。

 

夫 畜生……何をしやが……気でも狂ったのか……(つらそうにする。あたかも死んだかのように、床に崩れ落ちる)

妻 (電話をかける)ママ? 遅くなっちゃったわ。ううん、大丈夫。話をしたわ。何か反応したかって? まあ、普通に反応していたわ。私たちの関係はもうおしまいなの。それは明らかだから。彼がどうしてるかって? ここにいるわよ。ちょっとまどろんでいるけど。どのくらい眠ってるって? 何よ、あの人、狸寝入りをしてるんじゃないかって? よく眠ってくれてるわよ。私が出て行くと知って、どんな風だったかって? なんだか矛盾した態度だったわね。ママ、ちょっと私、荷物をまとめないといけないから。間に合うわ! 心配しないで! またあとでね!(受話器を置く)

 

部屋に入って行き、鏡を見つめる。

 

妻 すべてお別れよ! 今の私ともお別れ! ああ、私に愛をください、誰か私に愛をください!

 

2

 

アパートの部屋。鏡の上の突き出しランプが点いている。スーツケースの中身は再びしまわれている。夫は先ほどと同様に台所で横になっている。しかし、頭の下には枕が置かれてあり、身体には毛布がかけられている。静寂の中で水音がはっきり聞こえてくる。妻がシャワーを浴びている音だ。

 

夫 (うなりながら少し体を動かす)畜生……畜生……このやろう……

 

国際電話が鳴る音。

 

夫 (電話のある部屋に這っていく)畜生……畜生……(手探りで乱暴に受話器をつかんだため、大きな音が響く)何なんだ? こんな夜中に、気でも狂ったのか?! なんだって? ちゃんと話せ! おまえ、ロシア人じゃないのか? 何だと? 誰だって? 家にいるけど。どこに出かけたかって? お前、何をほざいてる?! 痛い目にあわせてやるぞ! 何? 何だって? クソッ!(受話器を投げる)

 

妻が入ってくる。バスタオルを巻いて、鏡の前に座る。髪をドライヤーで整え、マニキュアを塗っている。

 

夫 おめでとう! 今、コーカサス系らしき男が電話してきて、お前がもうどこかに……出かけたかどうか聞いてきたぞ。

妻 (無関心に)どこにだって?

夫 ちゃんとした女だったら派遣されないようなところさ! それにしても、これはどういう風に理解したらいいんだ?

妻 まずは、お酒の量と回数を減らすことね。

夫 何かがいつもと違って変なんだ。一体俺に何が起こったんだ? 頭は割れるように痛いし、口の中は気持ち悪いし。それに、何で俺は台所に寝そべっていたんだ、服を着たままで。

妻 つまりは、こういうことよ。私が催涙ガスを吹きかけてあげたの。自衛のためにね。

 

間。

 

夫 やるな! その調子なら、スキーで山登りができるな。

妻 私をぶったのよ。だから私は自衛のために使ったの。当たり前のことだと思うけど。またぶつなら、もう一度やってやるわよ。

夫 そんなもの捨てろよ! だいたいどこで催涙ガスなんて仕入れたんだ?

妻 会社がプレゼントしてくれたのよ。38日の国際婦人デーのお祝いにね。女性社員全員にプレゼントしてくれたの。ほら、役に立つこともあるのね。会社に感謝しないといけないわ。図書館に勤めていたら、こんなもの絶対に誰も思いつかないもの。

夫 馬鹿だな、お前ってやつは。それにしても、ご機嫌だな。お母さんのところの共同住宅に行くんだろう。あの一部屋だけのアパートにずっと一緒に住むのか? 例のだんなも一緒なのか? お母さんより20歳も若いっていうからな! お母さんがとっても大事にしてあげてる旦那だったよな? その大きなスーツケースを持ってどこに行くつもりなんだ?

妻 私のことは気にしないで! ママのところでは暮らすつもりはないの。2時間ほど寄るだけなのよ。

夫 なんと! マダム、ようやく自立したようですな。恥ずかしい仕事でたんまり稼いだから、アパートを借りるっていうのか?

妻 昨日、会社を辞めたの。

夫 聞けば聞くほど、面白くなってきたな! あの給料に見合うだけの仕事を図書館で見つけたっていうのか?

妻 私、モスクワを去ることにしたの。

夫 しばらく帰ってこないのか?

妻 もしかしたら、永遠に。

夫 それじゃ、どこに?

妻 ピサよ。

夫 あからさまだなあ。お前には似合わない場所だ。[2]

妻 4時間後にはローマ行きの飛行機に乗るの。ローマからピサへは車で行くのよ。

夫 どこに行くって?

妻 ローマよ。

夫 ローマはわかってる。そこから車でどこに行くって?

妻 あなたって、何も知らないのね。ピサよ。あなたの頭に最初に浮かんだところなんかじゃないわよ。全然違うの。イタリアの町よ。そんなに大きくはないけど。人口が10万人の町。私、疲れたから、休みたいの。(活き活きとして)あの有名なピサの斜塔があるところよ。ほら、常に傾いているっていう。

夫 その塔のことは知ってるぞ。気をつけたほうがいいぞ! 突然お前のところに倒れてこないとも限らないし。それで死んじまうかもしれない!

妻 12世紀からずっと傾き続けているの! たぶん、20世紀もこのままのはず。21世紀になってもまだ傾き続けることでしょうね。

夫 それで、その不安定なピサにはどのくらいいるつもりなんだ?

妻 言ったでしょう。これからずっとだと思うわ。

夫 仕事は、その……ピサってところで探すのか?

妻 いいえ。

夫 じゃあ、何を探しに行くんだ?

妻 夫よ。

 

間。

 

夫 頭が割れそうだ。全く訳がわからない。

妻 実はね、彼氏ができたの。

夫 誰の?

妻 あなたにじゃないわよ! わたしによ!

夫 ピサで?

妻 ピサに行くこと、あなたは反対しているの?

夫 そんなイタリアの片田舎だか、ローマの農村だか知らないが、反対などしないよ。

妻 ピサはイタリアの中心地にあるのよ。

夫 おまえのお気に入りの塔が倒れたって、誰もピサに関心なんか持たないぞ。あっちでお前は気が狂うだけだ。周りの人間は皆同じ顔、嫌気がするほど馴染みの顔ばかり……話が合う人間だって、誰もいやしない。

妻 イタリア語を勉強するわ。ピサは斜塔があるだけじゃないのよ。大学だってあるんだから。

夫 大学生になるには、ちょっと年を取りすぎだな。

妻 学問は遅すぎるってことないわ。私、勉強に対して情熱があるの。それにピサは、もう片田舎にはならないわ。国際空港だってある。

夫 世界中を旅したくなったのか? それに、こんなお前のお遊びの面倒みてくれるおばちゃんでも見つかると思ってるのか?

妻 私をこれから養ってくれるのは、新しい夫なのよ! あなた、気づいていないみたいだけど、私、イタリア人のところにお嫁に行くことにしたの。

夫 そんなこと、気づかないわけないだろう?! イタリア人って奴は金持ちの民族だからな!! 皆、一人残らずな。なんで金を持っているかっていうと、奴等がイタリア人だからだ。あっちでは、ここみたいに1部屋のアパートで暮らすんだろうが、その代わりパスタばっかり食うだろうな! ハハ! そういえば、おまえはパスタが大嫌いだったよな! パスタと1部屋のアパートか、なんともイタリアらしい、素敵な生活だ! あっちでは、別荘なんかないぞ。レールモントフやプーシキンのゆかりの場所なんか、新しいだんなは連れてってくれないだろう。ロシア旅行は、高くて手が出せないだろうしな。

妻 大丈夫! その代わり、ダンテやゴーゴリにまつわる場所を観光するわ! それにね、住むところだけど、彼は1部屋のアパートなんて持ってないのよ。

夫 まさか、共同住宅に住んでるのか? そうか、イタリア中、どこを探しても共同住宅しか建ってないんだな。

妻 彼はね、お城に住んでいるの。お城を持ってるのよ。

夫 お前がかわいそうだ! それは奴が巧みにだまそうとしてるのさ! 知ってるぞ、そういう城があるっていうこと! 奴等は金を巻き上げてるんだ! 修繕費用だとか暖房費とか、燃料費とかマッチ代とか言ってな……イタリアでは全部有料なんだ! がめつい国だからな!

妻 そういうのは、観光客が払ってくれてるの。彼はお城の見学ツアーをやってるのよ。

夫 左に見えますのは、甲冑を着た白痴の騎士でございます! 12世紀のものです。右に見えますのは、20世紀のもので、ロシア人の私の馬鹿妻でございます! ご覧ください、ベッドに裸で横たわっておりますってね! お前はどこでそのイタリア男をこしらえてきたんだ?

妻 結婚希望者の広告で見つけたの。

夫 つまり、ここにいる高潔で夢想家の司書さんは、計画に沿ってお婿さんを探していたわけか!

妻 そうよ、いろいろ吟味させてもらったわ。

夫 それで、そいつのどこが魅力なんだ? ピサのお城に住んでいる以外に?

妻 自分のお城に住んでいる男性なら、絶対に魅力的なはず。

夫 太ってて、背が低くて、毛むくじゃらで、足が曲がってるご老人だろうな。

妻 背たけは平均的、がっちりしていて、魅力的なの。それにあなたの古びたスリッパよりも4歳も年下なのよ。

夫 どのスリッパのことだ?

妻 あなたのふるーいスリッパのことよ、つまり、私。忘れたの?

夫 ということは、写真を別のものに変えたんだな? 奴の方はおまえにイタリアの誰か俳優の写真を送ってきて、お前は奴に16歳のときの写真を送ったんだろう。ローマの空港で落ち合うおまえらは、それはそれは不愉快な事実に直面するに違いない。

妻 彼はね、一度モスクワに来たことがあるの。私に会いに。

夫 (かっとなって)おまえは奴の泊まるホテルに通ってたってわけか? この売春婦め!

妻 そんなこと、保健省が禁じているわ。しかも、催涙ガスを持ち込むのは危険よ。

夫 だいたいお前のマナーはどうなってるんだ。人の目にガスを吹きかけるなんて! 特殊警察じゃあるまいし。

妻 あなたはこぶしで殴ったのだから、こっちにはガスがあったっていいじゃない。何事もバランスが大事。だから私はそのこぶしに応えてあげたの。ホテルには通わなかったわ。一緒に美術館に行ったの。あなたとばったり会わないと保証できる場所に、私が連れて行ってあげたのよ。

夫 レストランには行ったのか?

妻 まだよ。でもそのうち行くわ。

夫 お前のイタリア男はけちん坊だな! 結婚はしたいが、レストランでの食事は節約しやがる。

妻 彼のこと、悪く言っても無駄よ! あの人はね、私に渡航用のパスポート代とローマまでの航空券を買ってくれたんだもの。レストランで食事したことは、人生でたった1度だけ。

夫 それはいつのことだ?

妻 (ノスタルジックに)あれはランチの時間だったわ。職場で図書館の100周年を祝う会があったの。5ルーブルずつ出しあって、メトロポーリ・ホテルで本当に楽しく食事をしたの! 素敵だったわ! 私の今度の夫だって、時々いろんなレストランに連れて行ってくれると思うわ!

夫 だけど、若くて、気前が良くて、城の持ち主だとかいう奴が、どうして母国イタリアで嫁さんを見つけなかったんだろうな? なんで、広告まで出して女を探してるんだ?

妻 彼は、ロシアのことを子供のころから愛しているの。ロシア人と結婚したいとずっと思ってきたんだって。

夫 そりゃ、よーくわかるな! タダ働きさせられる女中が欲しいんだろう。奴のために料理、洗濯、家事、全てやってやることになるんだぞ……

妻 生涯ずっとね! でも、それはイタリアでの話。印象に残ることばかりが、目白押しなの!

夫 ところで、おまえ知ってるか、最近、パプアニューギニアの女を娶るのが流行らしいぜ。奴だって、そのうちそっちの女に乗り換えることだってあるかもしれない! そうやって永遠に流行を追いかける男になってしまうかもしれないんだぞ?

妻 彼はね、スラヴの女性の謎めいた魂を何よりも大事に思ってくれているの。彼は、私の魂の中身をひもとくのに、生涯通して私一人で十分のはず。私は、新しい出来事が詰まった宝箱のようなもの。それも無限の宝箱。

夫 ひょっとして、そいつ、性的不能者ってことはないか? おまえ、気になったことないのか?

妻 どうしてそんなこと? 彼には数え切れないほどたくさんの長所があるんだから、そんな欠点は気にならないわ。その点は、あなたも知ってるように、私は甘やかされていないから大丈夫よ。もう慣れっこになってるし。脇の下にガス缶持ってるくらいなんだから。それじゃ、あっち向いて! そろそろ着替えないと!

夫 まったく馬鹿になっちまったな! 脱ぐっていうならわかるが! 着替えるのか。それなら、どうして俺があっちを向かなきゃいけない?

妻 あなたのことが心配なのよ。私、着替えるとき、特にセクシーに見えるの。本当は誰も刺激したくないのに。

夫 お前が裸だろうと服を着ていようと、俺には特に関係ない! どっちも同じだ。

妻 お気の毒に。でも私はまだ、男と女には違いがあるっていう感覚を失いたくないの。だから、あなたはどっちでもいいかもしれないけど、あっちを向いてくれるかしら!

 

夫はそっぽを向く。

 

夫 俺はお前の言ってることが信じられない!

妻 あの子には、ピサから電話するわ。

夫 パスポートとチケットを見せろよ!

妻 ママのところにあるの。空港に行く途中に寄ることにしているから。

夫 ということは、これはすべておまえのお母さんが仕組んだんだな?

妻 私はもう子供じゃないわ。ほら、見てもいいわよ。

 

夫は振り返ってみると、エレガントに着こなした女性がいることに気づく。

 

妻 どうかしら?

夫 どうって?

妻 いいこと、もしも私がサッカーの試合だとするでしょ。そしたら、ヨーロッパを相手に、あなた、恥ずかしいとは思わないの? 触らないでよ! 私はもうあなたのものじゃないのよ! プラトニックに眺めるだけにしなさい! ほら、どうなのよ?

夫 すごいじゃないか!

妻 どうかしら?

夫 たしかにいい。俺のために、そんな風に頑張ってくれたことは全くなかった。

妻 この服は、彼のプレゼントなの。あなたは、こういうの、一度もプレゼントしてくれようともしなかったわね。もう本当に行かないとだめだわ。

夫 待ってくれ! お前、本気なのか?

妻 そのうちわかるわよ。夜、ピサから電話するわ。

夫 なぜだ?

妻 なぜって?

夫 なぜ、俺と別れる? 俺にはわからない。まるで自分のことじゃないみたいだ。俺達のことじゃなくて、何か他の、賢くない人たちの話のようだ! 俺は今までと変わらずいるのに、お前ときたら馬鹿になっちまったみたいだ。

妻 お別れの前にちょっとだけ座って話しましょう! あなたとの生活はこれでおしまい。始めのころは、私のことを愛してほしいと願っていたの。その後は、ただ私に関心を持って欲しい、ちゃんとした生活をしてほしいとだけ思っていたの。最終的には、とにかく礼儀正しい生活をしてもらえれば、とだけ思うようになったの。

夫 俺がお前を愛していないとでもいいたいのか?

妻 愛っていうのはね、夜の間ずっと喜びに打ち震えながら、私が寝ているのをじっと隣で見てくれることを言うの。愛っていうのは、私の声が相手にとってどんな音楽よりも官能的で、雪の感触よりも優しいときのことを言うのよ。愛っていうのは、相手の視線で頬がパッと赤く染まって、唇が乾いてしまうときのことを言うの……。愛っていうのはね、短い間互いに会えないことがまるで永遠に続くかのように思えるのだけど、今か今かと待ち望んでいた出会いが、突然起こることなの。愛っていうのは、ずっと不安で仕方なくて、夢の中でも相手を抱きしめているようなときを言うの。

夫 それで、お前はそういったことを、すべてピサで手に入れようとしてるのか?

妻 すべてを手に入れることはもう絶対に無理。私はあなたから愛を待ち続けるのをやめたの。

夫 それじゃ、なんで出て行くんだ?

妻 ゼロから始めたいの。

夫 ピサのゼロ男が、お前の世話を焼いてくれるなんて、どうして思うんだ?

妻 あっちではね、そういうしつけがされているのよ。子供の頃から、母親や姉妹、奥さんの母親、全ての女性を敬うように言われているの。奥さんもよ、自分の奥さんを敬うのは当然のこと! あなたにとって最後のことは、特に理解し難いことだろうけど。私は尊敬してもらいたい。ずっと尊敬してもらいたいの。孤独や無関心、それに愛されないことにはもう慣れたわ。あとは、何を失えばいいの? 何を思い出せばいいの? 今あるのは、希望と失われた幻想だけよ。

夫 ほら、図書館の仕事で得た成果がこれだ! 本の中で暮らすっていうのは、女が気が変になることなんだな!

妻 それは斬新な考えね!

夫 人生は、本とは違う。

妻 本だって、いろいろあるわ。あなたはとっても驚くかもしれないけど、本によっては、私たちの生活が、残念だけど、似ているものもあるのよ。

夫 俺はお前のことを愛していない、と思っているようだか、それは違うぞ。

妻 それじゃ、私のことを愛してくれているの?

夫 愛してるっていうのではなくて……ただ、愛していないとは言いきれないんだ。

妻 古いスリッパの喩えで、よくわかったわ。もう行かなくちゃ! さようなら! あなたがかわいそうだわ、何も思い出がないものね!

夫 (嬉しそうに無邪気に)思い出ならあるぞ! 結婚したときのことだ! 俺はあのとき、戸籍登録所に少しだけ遅れたんだった。寝坊したからだった。前の晩、夜更かししたせいだ。朝からあれやこれやで二日酔いをなんとかして……シャワーを浴びて、シャツを着て……サーニカがケフィアを買いに出かけて、長いこと帰ってこなかったから……

 

電話の呼び出し音。

 

妻 私に電話よ!(受話器をつかむ)ママ? わかってるわ! もう出るところよ! ドアのところにいるわ。いいえ、遅刻しないわ。何で今すぐ、そんなことをチェックインまでにしなきゃいけないの? チェックインの後だって十分間に合うわ。わかったわ、下に行ってて。わかった、下の玄関のところで待っててね。(受話器を置く)あなたったら、戸籍登録所に1時間以上遅刻してきたんだったわね。

夫 そういった細かいところまではもう覚えていない。だけどな、その代わり、お前のお母さんが俺のことを相当怒っていたことだけはすごくよく覚えているな。不満そうにおめでとうと言って、結婚式の間はずっとふくれっ面だった。

妻 だって、ママの気持ち、わかるでしょう? あなた、遅刻してきたことも謝らなかったわ。私、親戚の人たちを前にして、どんな風だったかわかる? お腹が大きいのに、いつになっても、花婿は現れない。そしたら、あなた、タクシーから突然飛び出してきたかと思ったら、どこから連れてきたかわからない娘を引っ張りだしてきて、大声で笑っているんだもの。

夫 その娘は関係ない。同じ寮の仲間だったんだ。彼女は、その前の日に彼氏に捨てられてさ。サーニカが俺たちのところに連れてきたのさ。その子が一人ぼっちにならないようにってね。サーニカが彼女のこと気に入ってたから。だから、ずっと彼女を連れまわしていたんだけど、彼女ときたら、いきなり前の彼氏と仲直りしてしまったものだから。だから、俺は関係ないんだ。

妻 彼女のこと、サーニカが気に入ったっていうのは、そうかもしれないけど、彼女の方はね、あなたのことを気に入っていたのよ! だから、結婚式の席であなたといちゃついていたじゃない! 私はあなたの隣に座っていたけど、もう一方の側にはあの子がいたのよ!

夫 彼女の名前も覚えてないのに! なんだって、そんなバカ娘のこと、思い出したりするんだ?

妻 名前を覚えてなくても、あなたが連れてきたのよ! そして、彼女が私の結婚式を台無しにしてしまった! 私はお腹が大きくて、顔はしみだらけだったけど、彼女はスタイルがよくて、恥知らずな女だった。あなたに体をぴったりくっつけて踊ってたわ。あなただって、彼女のことをうっとりした目で眺めていた。しかも、かなり酔っ払っていたわね。皆に笑われたけど、私に同情してくれる人もいたわ。私は本当に不幸な女だった、あんなにも傷つけられて! しかも、結婚式という、人生で一番重要な日だったのに! あの子ったら、私の花嫁衣装のベールをつけてみたいって言い出した。そしたら、あなたは私に何も言わずにそのベールを取って、あの子につけてあげたのよ。あの子は、私のベールをつけたまま、あなたと手をつないで皆の前にお辞儀してこう言った。「私たち、お似合いのカップルかしら?」って。しかも、あの子ったら、私みたいにお腹の大きいふりをしながら、「私たちのベビー、どんな名前にしようかしらね?」なんて言ってた。だから、皆は大笑い! それなのに、あなたったら、なんで私のママに嫌われているのか訳がわからない、だなんて!(泣きじゃくる)

夫 (厳しい口調で)お前は立ち上がって、その場から出て行けばよかったんだよ! 俺にツバを吐いて出て行けばよかったんだ! そしたら、俺はお前のところに這って行っただろう。まあ、這っては行かなかったかもしれないが。自分のことが嫌いで、自尊心がないのなら、俺にいろいろ求めたって仕方ないだろう? お前の好きな本からは、誇りってものは学ばなかったのか? 頭がおかしくなったんだな! お母さんがいつも傍にいたから! 高等教育を受けたんだろう! それとも何だい、赤ん坊を一人前に育てられないとでも思ったのか? あるいは、旦那がいなければちゃんと産み育てられないと思ったのか? 自分に愛を誓ってくれない男の寝床に入り込むことが礼儀だとも思ったのか? しかも、一緒に寝てくれって、それほど頼みもしなかった男の寝床に? 単に酔っ払ってただけなのに! だから、付き合い始めて間もない頃に、必要以上の愛撫をしてしまうんだ。俺がお前と結婚したかったとでも思っているのか? お前が妊娠したから結婚したとでも? 俺はまだ一度も心底人を惚れたことがないんだ! 周りにはたくさん女があふれていたのに! 目移りして大変だったくらいだ! 誰とでも結婚できたかもしれないんだぞ! お前のお母さんは、俺がアパート目当てにお前と結婚しようとしてるじゃないかって、仄めかしてた。俺は、アパートを買うまで、あと2年働かなきゃいけなかったんだ! 結婚どころか首を吊って死にたいくらいだったよ! だから、俺はできるだけ気晴らしをするようにしてたんだ。それとも、結婚式で、俺が暗く不幸せそうな顔をしてたほうがよかったのか? 俺は何でお前と結婚したんだろう? あの時のお前、なんか変だなというのは感じていたさ。お前は、何とか自分自身をコントロールできるだろう。でも俺は、あの後良心が痛んださ。俺は、とにかくちゃんとした男として結婚しなければいけなかった。俺は結婚しなければならなかったが、でもお前を愛さなくてもいいんだ! あの結婚式のことを覚えていけないといけないのか? 俺の体は、全く反対で、すべて忘れようとしていたんだ。不幸な日だったからな!

妻 そんなこと、あなた今まで言ってくれたことなかったわ。

夫 今さら言ったって無駄なことだけど。女にはこういうことを言うべきじゃない。言わなきゃよかった! 今のこと、忘れてくれ! 今さら、かもしれないが……。まあいい、スーツケース、タクシーのところまで持っていってやるよ!(スーツケースを持つ)これからずっと俺のことを憎み続けるがいいさ。

妻 いいえ、あなたのことが気の毒だわ。私はもっとついていたから。だって、私は少なくとも愛せたもの。片想いだったとしてもね。私はね、あなたが私のことに関心を持ってくれれば、愛してくれれば、ってずっと祈って暮らしてきたの。でも、私があなたの生活を駄目にしてしまったのね。あなたは結局愛することを知らずに、今日まで暮らしてきてしまった。

夫 俺は愛されていたとは思えなかった。ほら、急げよ、ゼロから一緒に始めたい男が待ってるぞ! 俺のことを愛していただと! お笑い草だな! ほら行こう!

妻 お笑い種ですって? ちょっと待って! 私、本当に愛していたのよ!!! そのことはちゃんと言っておかないと!

夫 お別れだ! 早く急げよ! これからはピサのゼロ男のために頭を使うんだ!

妻 このことをちゃんと話すまでは、絶対に出て行くものですか!

夫 (決意を固めたことを妻に示すかのように、座る)好きなようにすればいい! 俺にショックを与えてくれることなんだろうな! 20年間、家庭生活を続けてきてようやく、俺が情熱的に愛されていたということがわかったとしたら、それはさぞかし聞き応えのあるものにちがいない。よし、聴いてやろう。その価値はある。

 

間。

 

妻 (低い声で)覚えてる? 私たちが初めて出会ったときのこと?

夫 ぼんやりとだけど。そのときのことが関係あるんだったら、思い出させてくれ。

妻 私、あなたの寮の図書館で実習があったの。ある時、あなたは図書館に来て、ブルガリアに関する本を探しているって言ってきた。だから私、すぐにあなたのことが気になったのよ。あんまりないことだから。旅行に行きたいって思っている青年なのかなって。

夫 俺が旅行のことをお前にぺちゃくちゃ話したのだっけ?

妻 いいえ、私が勝手に想像していただけよ、だって、私も遠い外国に旅行したいと夢見ていたから。

夫 それにしても、何でブルガリアのことなんか、必要だったんだろう? ああ、そうか、ブルガリア人の綺麗なネエチャンと付き合おうとしたんだった!

妻 私たちはあの時、いろいろ話しているうちに、二人とも「映画旅行クラブ」のことがすごく好きだってことがわかったのよ。ということは、あなた、嘘ついて私を誤解させたのね?

夫 男は皆、女を誤解させることだけに気を使うものさ。それじゃ何だい、俺はブルガリア人のネエチャンのことを全部お前に話さなきゃいけなかったのか?

妻 そんな嘘、何でついたのよ? もっと正直でいたら、あなたの人生は変っていたかもしれないわ。

夫 あの頃、俺は女の尻ばかり追い回していた。そういう年頃だったからな。寮で利口な女に会うのも楽しかったくらいだ。それにお前は面白い子だった。いつも眼鏡が落ちかかっていた。それで、いつも眼鏡が下に落ちてから、はっと気づいて拾い上げるんだ。だから、おれはあの子の眼鏡、きっと何度も割れてるだろうなと思ってた。

妻 私はね、知り合いの人全員に聞きまくって、たくさんの図書館を駆け回って、ブルガリアに関する本を、あなたのためにいっぱい集めてきてあげた。それであなたの部屋を探し当てて、全部持っていってあげたの。

夫 そのときのこと覚えてる、覚えてるよ……すごく驚いたよ!

妻 でも、あなたは留守だったのよ! だから、ルームメイトに本を預けたの。1週間、1ヶ月と時が経ってもあなたは一向にお礼に来てくれなかった。

夫 俺はそのとき、ブルガリア人のネエチャンとソチに旅行に行ってたんだ。でも本は、ちゃんとお前に返したはずだよ。

妻 私が取りに行ったのよ。あなたにブルガリア人の彼女がいるなんてこと、知らなかったわ。

夫 結局、あの子とは別れたんだ。ソチから帰って来てすぐにね。

妻 そうだったの? その子のこと、嫌いになったのね?

夫 嫌いになったって? いや、そうじゃなくて……俺は気に入っていたよ。とても派手な子で、綺麗だったし。

妻 それじゃ、彼女に振られたのね?

夫 たしか、そうだったかと思うけど、でもちゃんと覚えてない。だって、20年も前の話だからな。

妻 じゃあ、何で振られたの?

夫 結婚したいと言って来たから。

妻 それであなたは?

夫 もちろん、したくなかった。

妻 その子と結婚したくなかったの?

夫 彼女は関係ないんだ! 俺がその頃、結婚したいとは全く思わなかったんだ。だいたい、その時俺が結婚していたら、どんな夫になったことやら。

妻 ということは、私が本を回収しに部屋に行ったときには、ブルガリア人の子とはもう別れていたの?

夫 たぶん……いや、その後だったかな? 覚えてない! どっちでもいいだろう!

妻 それじゃ、私がちょっと部屋に寄って、そのまま……朝まで過ごしたことは覚えてる?

夫 それはすぐの話? 初めて俺のところに来たとき?

妻 そうよ。

夫 ということは、おそらく、ブルガリア人とはもう別れた後だったはずだ。でもその後、お前どこかにいなくなってしまっただろう。しかもかなり長い間ね!

妻 7ヶ月間よ。

夫 どこに姿をくらましていたんだ?

妻 あなた、私の電話番号、持ってたわよね。

夫 電話番号はさ、いつもなくしてしまうんだ。

妻 私はね、あなたの電話を待っているうちに、病気になったの。精神的に参ってしまったのよ。たぶん、妊娠したせいもあったのだと思うわ。体重もかなり減ってしまった。ずっと泣き通しだったのよ。

夫 でも、電話するよって、約束したっけ?

妻 いいえ、そんな約束は交わさなかった。私は電話番号を渡しただけ。でも、あなたは電話しないよ、なんて一言も言わなかったじゃない!

夫 だいたい、そんなこと、付き合ってる女に言うか? 電話する気分になるかどうかなんて、そのときにならなきゃ誰もわからないだろう!

妻 じゃあ、あなたはそういう気分にならなかったってことね?

夫 だから、すぐに電話番号をなくしてしまっただけなんだよ。もしもなくしてなければ、電話してたかもしれない。

妻 私、最初のころ、本当に幸せだったのよ! あなたが電話してくれるって、信じきってた。待ち続けて……でも、ある時、騙された、ってことがようやくわかったの。

夫 やれやれ! 騙された、だなんて! お互いに何も約束しなかった、って判明したばかりじゃないか!

妻 でも……いろいろあった後のことだし……あなたは最初に付き合った人だったから……

夫 ちゃんと予め言ってくれればよかったんだよ! もしかしたら、俺はその約束を断ったかもしれないんだから。すると、この話、俺が騙されたってことにならないか! だってさ、7ヵ月後に突然お前の母さんが現れて、もうすぐ子供が生まれるんだって、不満そうに伝えに来てくれたからな。

妻 あなたのところには行かないでって、頼んだのに。

夫 ちゃんと頼まなかったんだろう! それじゃあ、どうして子供を堕ろさなかったんだ?

妻 (ショックを受けて)それは、私がどうして息子のリョーリカを殺さなかったのか、って聞いてるのと同じことじゃない?

夫 でもその時は、リョーリクが生まれてくるなんてわからなかっただろう?!

妻 私はわかっていたわ!

夫 それにしても、どうして俺がお前と結婚してしまったのか、未だによくわからない。お前の母さんのことは、初対面から気に入らなかった。赤ん坊のことも心配にならなかったし。それなのに、何で結婚してしまったんだろう?

妻 それは、私があなたのことを愛していたからじゃない?

夫 そういうのを愛っていうのか? いや、そういうもんじゃないと思うな。愛っていうのは、才能と同じようなものさ! 歌とか絵の才能とか、そういうのと同じようなもので、皆に備わっているってもんじゃない。すまないが、お前にはそれがない。

妻 あなたにどうして分かるの? 私はあなたのこと愛していたわ、あなたの方が今まで誰も愛したことがないんでしょう!

夫 愛したことはある。

妻 私と知り合う前のこと?

夫 このことはやめよう。遅れるぞ! 今さら取り上げる話じゃないさ。全部昔のことなんだから。

妻 言ってよ! 私の前に愛した人がいるのね?

夫 言いたくない。

妻 せめて人生で一度くらい、本当のことを言ってみたら? 今さら怖がることはないわ。もう出て行くわ、出て行くから! ここには留まらない! だから心配しないで!

夫 ただお前を怒らせたくないんだ。

妻 今ごろ思い出したりして! ほら言いなさい! それは私と知り合う前のことなのね? お願いだから! 私と知り合う前のこと?

夫 いいや。

 

電話の呼び出し音。

 

夫 (受話器に向かって)はい? (妻に受話器を手渡そうとして)お前に電話だ!

妻 もしもし? ママ? シェレメチエヴォ空港で待ち合わせよ! チェックインのフロアの柵のところでね。ごめんね! うん、ありがとう。 そうよ! もう出るところよ! ママ、さっき言ったでしょう! 今すぐ出るから。(受話器を置いて)ということは、私と同じ時期なのね?!

夫 遅れるぞ。お前の人生をまた駄目にしたくないんだ!

妻 驚きだわ。私のことは心配しないで! それは私との結婚生活と同じ時期のことなの?

夫 ああ、どうしよう! その通りだ!

妻 いつのこと?

夫 えっと……あれは、リョーリクが2歳ごろのことだったかな……

妻 あの夏の日のことね! あなた、私とリョーリクを別荘に送り出したのはそういうことだったのね……だから、別荘にはほとんど来てくれなかった…… 私はずっとあなたのこと待ってたのよ! 列車が来るのを待ったこともあったわ。ナナカマドの実でネックレスを作って、それが私によく似合っていたから……。

夫 その夏の日だけじゃないさ。夏も、春も、冬も、そして秋も、全部で5年続いた話なんだ。 

妻 5年間も二重生活を送っていたの?! 5年も愛人がいたなんて?! (突然、こぶしを振り上げ、夫に覆いかぶさろうとする)それで私と一緒に寝ていたの?! 図書館から帰ってきた私とリョーリクを出迎えたりしたのね?! 南の海にも連れて行ってくれたわね! この卑劣者! 私たち、あそこにあったダンスホールで一緒に踊ったわよね! 喧嘩もした! 仲直りもした! それなのに、あなたにはずっと愛人がいたなんて!

夫 もうやめてくれよ! 愛人なんていなかった! 彼女とはそういう関係じゃなかったんだよ!

妻 (突然静かになって)彼女はあなたのこと、愛していなかったの?

夫 そうやって会話に引き込もうとするのは、よしてくれよ。もう事を荒げたくないんだ。

妻 これだけは教えて。彼女はあなたのこと、愛していなかったんでしょう? 私はいつもあなたの傍にいたのに、あなたは、別の女性をどうしようもないほど愛していたの?

夫 どうしようもないほど、お互いに愛していたさ! でも、問題はそこじゃない! 俺だって愛していたさ! 愛が自ずとすべてを変えていったんだ。

妻 ということは、彼女はやっぱりあなたのこと愛していなかったのね?

夫 愛していたよ。

妻 愛していたの?! それじゃ、あなた、どうして彼女のもとに去って行かなかったのよ?

夫 去って行かなかった。

妻 彼女は、結婚していたのね?

夫 いいや。

妻 それじゃ、どうして出ていかなかったのよ?

夫 そんなこと、もういいじゃないか、今さら。

妻 話を始めたんだから、ちゃんと最後まで教えてよ! 一度くらい、最後まで言い切ったらどうなのよ! どうして、私のもとから出ていかなかったのよ?

夫 ごめんよ!

妻 どうしてなの、あなたったらほんとに馬鹿ね、どうして私を見捨てなかったのよ?!

夫 (叫ぶ)見捨てることなんかできるもんか?! どこに出て行くっていうんだ? もう手遅れだよ! お前も息子もいたんだから! 出て行くなんて、無理さ、もう手遅れだったんだよ!!!

妻 私のこと、かわいそうに思ったんでしょう……。

夫 そうだ。お前のことも、息子のこともね。すまなかった!

妻 あなたに同情されなくてもよかったのに! 私、見捨てられてもよかったのよ! そしたら、今ごろ誰か別の人と幸せに暮らせていたかもしれないのに!

夫 でも、あの頃のお前は、そんな風に思わなかったはずだ。

 

間。

 

妻 その人は、私より若かったの?

夫 俺よりも年上だった。

妻 かなり上だったの?

夫 そんなこと、どっちでもいいだろう。

妻 今、その人、50過ぎでしょう?

夫 それがどうかしたのか?

妻 綺麗な人だった?

夫 俺には、そんなこと関係なかった!

妻 ブスだったの?

夫 特にこれといって目立たない地味な女性だった。何か心配事があると、目がやぶにらみになってた。

妻 若くもなくて、綺麗でもなくて、やぶにらみの目をしていた女性。しかも、結婚していなかったのね。すると、旦那に捨てられたのかしら?

夫 そんなこと、尋ねたこともない。たぶん、旦那はいなかったんじゃないかな。でも、息子はいた。

妻 そうやって、思い出に浸っているところを見ると、あなた、その人にぞっこん惚れ込んでいたのね。たぶん、その人、男性にもてたんでしょうね!

夫 もてただって? どんな男のことを言ってるんだ? 何を言ってるんだ? もちろん、言い寄ってくる男たちはいたさ、でも彼女は自分ってものをちゃんと持ってる人だったからね。

妻 ということは、彼女に惚れたのは、あなた一人だけってことになるわね。でも、どうして、よりによってあなたが惚れちゃったのかしらね?!

夫 それはわからない。そうなってしまったんだ。別にわざとそうしたんじゃない。ただ、ある時、分かったんだ、この人のことをずっと前から好きだったんだって。

妻 それで、その愛はどうなったの?

夫 特に変ったことはなかった。ただ、彼女に訳もなく惹かれていた。なるべく頻繁に、長い間傍にいようと思った。土日が嫌いだった。この2日間は彼女と一緒にいられなかったからね。これで彼女とは二度と会えないんじゃないかと思うと、この2日間は怖かった。これで、突然いなくなってしまったら……って思った。大体、この世の中って、すごく巨大で、もつれあっていて、訳がわからないものだし……しかも、俺とは何の関係もなく存在しているものだから。だから、毎週月曜日に彼女に再会できたことは本当に奇跡だったんだ。俺たちだけに、光がすっと差し込んでくれているような気がした。でもそれはとても弱々しいものだった。

妻 思い出したわ! あなた、40度近い熱を出して、耳をひどく痛がったときがあったわね。顔もすっかり腫れあがっていた。それなのに、仕事に行ったことがあった……それは、彼女がいたからなのね?

夫 その通り。

妻 それで、あなたたち、一度も何もなかったの? 全く?

夫 一回だけあった。

妻 一度だけ? 本当に? (笑って)信じられないわ。

夫 彼女のカバンを家まで持つのを手伝ってやったことがあった。彼女、帰り道で気分が悪くなってしまってね。彼女はモスクワ郊外のムィティシに住んでいたから、俺の方からそうしてあげたんだ。家に到着したら、彼女がちょっと寄ってって、って言ってくれた。木造の4部屋あるアパートの2階に住んでいた。彼女の家、すごく心地よかった。ペチカに火をつけて、それから、紅茶を飲んだ。彼女の息子が算数の宿題をやっていたのを手伝ってやった。とても単純な問題だったのに、なかなか解けなかったから。彼女は俺たちのことを見て笑ってた。彼女と息子はしょっちゅう、ふざけあっていたな……俺たち、3人でもどれだけ笑ったことか! 何がおかしかったのか、もう覚えていない。でも、これまでの人生で、あんなにたくさん笑ったことはなかったんだ。

妻 それで、その団欒が終わったあとは、どうなったの?

夫 うちに向かったさ。でも、すぐじゃない。町をかなり歩き回って、いろいろ考えていた。それで、今度会ったら、それからはずっと彼女のもとに留まろうと決めた。でも、翌日、俺は解雇されてしまったんだ。でも、彼女に別れの挨拶はしに行かなかった。あえてそうするまでもないと思ったからね。

妻 それは変な話だわ。そんな話、どの物語の主人公にも起こりえないことだわ! それで、彼女にはその後会わなかったの? 一度も?

夫 一回だけ見かけた。

妻 あなたの話は、いつも1回ずつなのね! それはいつのこと?

夫 最近。

妻 本当に? 最近?

夫 偶然にね。地下鉄で会った。

妻 何か話はしたの?

夫 いいや、話をしたとは言えないな、でも……

妻 それで、彼女はどんな風だった?

夫 そんなの、どうでもいいだろう?!

妻 どうだったの? ドキドキしたのね?

夫 ドキドキしたかどうかなんて、どうでもいい! もう行けよ! ピサのゼロ男、逃してしまうぞ! 最近は、スラヴ女性の謎めいた魂が、ロシアから群を成して飛び出て行くようになったんだな。

妻 挨拶はしたのね?

夫 まあそうとも言えるかな。

妻 それとも、せめてお互いのことを思い出せたことは、ありがたいと思った? でも、声をかける言葉がお互いに見つからなかったの? もしかして、その幻想は一気に崩れ去ってしまった? それで、私とあなたの物語は、あなたのその幻想という名の車輪に轢かれてしまったのね。

夫 俺が彼女を見かけたときは、もう地下鉄のドアが閉まりかかっているときだった。彼女は俺に気がついた。俺たちの目線が合ったとき、彼女はあっと叫んで、閉まりかかったドアを開けようとした。俺も突っ走っていって、ドアを開けようとしたんだけど、間に合わなかった。電車は彼女を連れ去ってしまった。彼女の泣き様といったら!

 

間。

 

妻 どこがよかったの? 彼女のどこが私よりも良かったの? (間)私が出て行ったら、あなた、彼女と結婚したらいいじゃない?

夫 もう今さら遅いよ。過去には戻れない。俺はこういう選択をしたんだ。もしかしたら、それは間違っていたのかもしれない。でも、運命ってやつは、もう一度チャンスを与えてくれないからな。

妻 私、もう行かなくちゃ。あなたに、ありがとうって言いたいわ。その時、見捨てないでくれて、ありがとう。かわいそうと思ってくれて……たぶん、私、1人じゃ生きられなかったわ。私に人を愛する才能があったかどうかはわからないけど、でもあなたのいない生活なんて、想像できなかった。私、家を出て行ったことあったわね! 馬鹿みたいなことで! 図書館に逃げていった時よ。覚えてる? 図書館の別棟に、そこにリョーリクを寝かせる小さなベッドがあったでしょう? たくさんの本の強いエネルギーが、あなたに愛されていない私を守ってくれていた。でも、夜になって、あなたは私たちを迎えに来てくれた。その時、私にとってどれだけあなたが尊いものであったかっていうことがわかったわ。

夫 家庭生活は、ピサの斜塔と同じようなものなんだな。今にも倒れそうだけど、一度も崩れることはない。そんなこと、誰もわかりゃしない。お前が偶然身ごもったこと、俺が結婚しなければならなくなったこと、俺たちの喧嘩、気苦労、俺の浮気、酒飲み、それにお前が希望を抱いたり、失望したり、腹を立てたり、耐え忍んだり―こういったことは全部、男と女を不思議にも結び付ける運命なんだ……家族ってものは、多くのものを打ち砕くこともあれば、耐え抜くこともできる……時には崩壊してしまうこともあるけれどもね。お前がいなくなったら、俺はつらい。今だってもう、これまでにないほどつらいんだ。

妻 (受話器を取る)そうよ! まだここにいるわ。そうね、間に合わないわ。でも、ごめんね、ママ、本当に、許して、そんなにがっかりしないで。ローマ行きの便、これが最後じゃないでしょう! 次の便で行くわ! ごめんね、本当に……(受話器を置く)ほら、遅れてしまったわ……次の便で行こうかしら?

夫 次の便は何時だ?

妻 わからないわ。

 



[1] ソヴィエト時代の集合住宅で、1つのアパートに数家族が住み、トイレ、台所、風呂は共用スペース。

[2] ロシア語でピサ(Пиза、発音はpiza)という単語は、「女性の性器」という意味の単語(пизда、発音はpiza)と同じ響きを持っている。しかもこの単語は、淫乱な女性に対して用いられることが多い。夫は「ピサ」という単語を地名として理解していないために、このような台詞になっている。